賃貸物件の退去時に、敷金がほとんど返らない、あるいは原状回復名目で高額な請求を受けた、という相談は少なくない。2020年改正で民法622条の2が新設され、敷金の取扱いが条文上明確化された。本稿で、敷金返還と原状回復をめぐる基本的な枠組みを整理する。
扱うのは、①民法622条の2の構造、②原状回復の範囲(通常損耗・経年劣化)、③通常損耗特約の有効性(最判平成17年12月16日)、④過大請求への対応の流れ、の順である。
民法622条の2——敷金の取扱い
1項 賃貸人は、敷金(いかなる名目によるかを問わず、賃料債務その他の賃貸借に基づいて生ずる賃借人の賃貸人に対する金銭の給付を目的とする債務を担保する目的で、賃借人が賃貸人に交付する金銭をいう。以下この条において同じ。)を受け取っている場合において、次に掲げるときは、賃借人に対し、その受け取った敷金の額から賃貸借に基づいて生じた賃借人の賃貸人に対する金銭の給付を目的とする債務の額を控除した残額を返還しなければならない。 一 賃貸借が終了し、かつ、賃貸物の返還を受けたとき。 二 賃借人が適法に賃借権を譲り渡したとき。
改正前の民法には敷金そのものの規定がなく、判例・実務の集積で運用されていた。改正後の622条の2は、敷金を『賃借人の金銭債務を担保する目的で交付する金銭』と定義し、賃貸借終了かつ目的物返還の時点で、未払い賃料等の控除残額を返還する義務を貸主に課している。
原状回復の範囲——通常損耗と経年劣化
民法621条は、賃借人の原状回復義務を定めるが、賃借物の通常の使用および収益によって生じた損耗、ならびに賃借物の経年変化については、原状回復義務の対象から除外している。論文や交渉で混同されがちな点だが、通常損耗・経年劣化は原則として貸主負担と理解されているのが基本である。
原状回復の3区分
通常損耗・経年劣化(貸主負担)
壁紙の色あせ、フローリングの自然摩耗、日照による畳の変色、冷蔵庫背面の電気焼け、画鋲程度の小さな穴など、通常使用の範囲で生じる損耗。原則として貸主負担となる。
通常損耗特約(要件を満たす場合のみ有効)
通常損耗の補修費用を借主が負担する旨の特約は、後述する最判平成17年12月16日の枠組みのもと、明確な合意・特約内容の認識・負担範囲の特定があるなどの条件を満たさない限り、効力が否定されうる。
故意・過失による損耗(借主負担)
飲み物をこぼした床のシミ、壁の大穴、掃除不十分によるカビ、ペット禁止物件でのペット飼育による傷・臭い、タバコのヤニ汚れなど、通常使用を超える借主側の事情による損耗は、原則として借主負担となる。
通常損耗特約の有効性——最判平成17年12月16日
最判平成17年12月16日は、通常損耗の補修費用を賃借人に負担させる特約の有効性が争われた事案で、特約による負担を認めるためには、賃借人が補修費用を負担する義務の対象となる通常損耗の範囲が明確に合意されていることなどを要する、との整理を示した。
実務では、特約の文言が抽象的で、どの範囲の損耗をどの程度借主が負担するのかが明確でない場合には、特約の効力が否定される方向で運用されることが多い。交渉では、特約の文言が明確性を欠かないか、契約締結時に説明があったか、を具体的に確認することになる。
過大請求への対応
過大請求への対応の流れ
証拠の保全
退去前に部屋全体の写真・動画を日付付きで保存しておく。入居時の写真と退去時の写真を対比できる状態にしておくと、その後の交渉が大きく楽になる。
請求内容の確認と書面照会
貸主からの請求明細を受け取ったら、項目ごとに通常損耗・経年劣化に該当しないか、特約の効力要件を満たすかを確認し、必要に応じて書面で照会・異議を申し立てる。国土交通省『原状回復をめぐるトラブルとガイドライン』が参考になる。
公的窓口・少額訴訟
話し合いで解決しなければ、消費生活センターに相談し、必要に応じて少額訴訟(60万円以下の請求)や民事調停を検討する。少額訴訟は本人訴訟も可能な比較的簡易な手続である。
よくある質問
Q. 敷金返還請求の時効はいつまでか
A.改正後の民法166条1項1号により、債権者が権利を行使することができることを知った時から5年で消滅時効にかかる。
退去時に請求権が発生するため、放置せず、必要に応じて内容証明等で時効の完成猶予を確保する対応が安全である。
Q. ハウスクリーニング代の特約は有効か
A.金額・対象範囲が明確に合意され、賃借人が負担を理解したうえで合意していることが必要、というのが最判平成17年12月16日の射程の理解である。
『退去時クリーニング代借主負担』とだけ記された特約は、明確性を欠くとして効力が否定される場面がある。
Q. 壁紙や床の張替費用を全額請求された
A.壁紙やフローリングなど、耐用年数が想定される設備については、減価償却の考え方を踏まえ、入居年数に応じた残存価値の範囲で借主負担が問題となる場面が多い。
新品交換相当額を全額借主負担とする請求は、過大請求として整理されうる。
Q. 故意過失と通常損耗の判断はどこで分かれるか
A.通常の生活を送るうえで避けられない損耗は通常損耗、通常使用を超える借主側の事情(飲みこぼし、ペットによる傷など)による損耗は故意・過失による